─どうしてばれたの?

茜は、熱で荒くなった息を、ゼエゼエと吐きながら、目の前の男を睨みつけていた。
そして相手も、自分をものすごい形相で睨み返してきている

格好つけで、女の子の賞賛を一身に浴びたい彼は、普段、軽薄でいて優しげな笑みを浮かべているのだが、今日は、どうやら心底、怒っているらしい。

─牙琉 響也。アンタは敵よ!!
 というか、折角、新に入手した… え〜とまあ、いいわ。
 とにかくこの試薬を試さないうちは、帰れないのに!!どうして邪魔すんのよ!!

熱の所為だろう。
なけなしの金をはたいて通販した、薬品の名前を度忘れしていたが、茜は彼に屈しないためにも、その考えを振り払うかのように、左右に頭を振った。 その時ちょっと、眩暈を覚えたが、目の前の敵を排除する事へと意識を集中させる。

「"どうしてばれたの?"とか思ってるのかい?刑事くん
 今の君は誰の目にも、すこぶる体調が悪いと一目瞭然だと思うけど」
「ゼエ…私は…ゼエゼエ…すこぶる体調…良いですよ!!ハアハア」
「そんなゼエハア言ってて、どこがすこぶる体調が良いのかなぁ〜?」

頭はクラクラし、足だって雲の上を歩いているように、ふわふわしていて覚束ないが、それでも、ここで帰るわけにはいかない! そもそも38度程度の熱で、仕事が出来なくなるほど、柔な体ではない。

「あのね。仕事熱心なのには敬服するけど、今回の風邪は、初期段階で手を打っておかないと、長引く上に入院する羽目になるそうだよ。
 だからさ。今日はもう、病院にかかった上で、家でゆっくり静養していてくれないかな?
 君の事がとても─…」
「ああ!もう、腹が立つ!
私は大丈夫だって言ってるでしょ!
じゃらじゃらした年下の検事になんて、偉そうな事を言われなくても
ちゃんと仕事はこなせるし、自分の体の状態だって理解できてるわ!」

その彼女の言葉に、響也の表情に険しさが増す。
嘘つくなよ。
と怒鳴りつけた上で、実力行使にでも出たい気になったが、他の目がある事と、何よりこれ以上、彼女の病状を悪化させたく無いという思いから、そこは何とか思い留まった。

彼女の性格から考えて、取り押さえようとしても、思いっきり抵抗してくれるに違いない。 入院を覚悟した上で。

「すごい事、言うよな」
「アレ完全に熱の所為だよね」

もはや二人の事は無視して、作業を再開した刑事達は、サクサクと作業を進めている。 のんきな話をしつつ、二人の会話に聞き耳を立てながらも、現場検証の手を休めずに、黙々と進めていくその姿は、一種異様だった。

「若いっていいよね」 などと、どこか老人のような感想を誰かが述べた時、静かに部屋の扉が開かれ、それに気がつき、一同がそちらへ視線を向けた瞬間、彼らは固まった。

担当弁護士が、事実関係を確認するために現場検証に来たのだ。
そして、今の感情的になっている担当検事にどう伝えようか。
そもそも、担当検事をなんと呼ぼうか。
そして、彼を見た後の検事は大丈夫だろうか?
などと、様々な疑問が各人の頭を過ぎる。

しかし、現場のど真ん中で言い争いをしている二人には、もはや誰がここに来て、どんな作業をしているのかよりも、どちらが先に折れるのかの方が重要だった。

「…年下とか検事とか、そんな事、今は関係ないだろう。
 ましてや考えなしに、感情の赴くまま、発言をしている今の刑事くんに、正しい状況を判断できる能力はないと、ぼくは思うんだけど…」
響也は、怒りを通り越し、呆れ果てた表情で、彼女の事を見つめていた。

どうしてこんなに頑固なんだ!
と、胸中で毒づいてみたが、そんな事を口にすれば、火に油。
ますます頑なになり、「絶対帰りませんからね!」と、あっかんべぇ〜。と舌を出されて拒否されるに違いない。

この人確か、ぼくより一つ年上のはずだけど、根本的な所で子供だからな。
等と思いながら、とりあえず気持ちを落ち着け、どう彼女を説得するべきか、と、改めて思考を巡らせる。

「弟が、あなたに何か御迷惑をかけているのですか?」
冷静に考えようと、響也が口を噤み、茜がどう反撃しようかと考え始め、会話が途切れた隙を突いて、男の声が割り込んできた。 そして、馴染み深い声に、響也は固まった。

自分の事を"弟"と呼ぶ人間は、この世に一人しかいない。
彼の兄で弁護士の、牙琉 霧人、その人だ。

彼にとって七つ年上の兄は、尊敬している反面、畏怖の対象でもある。
ある意味、両親よりも兄に叱られる方が怖いのだ。
それは幼い頃、兄の後をついて歩き、彼に学んだ事が多かったからかもしれない。

そしてその兄に、子供じみた喧嘩をしている現場を目撃されたと理解すると、なんとも言えない焦りのような物を感じた。
いや。厳密に言ってしまえば、喧嘩現場を見られた事にではなく、宝月 茜と一緒に居る現場を目撃された事に対してだ。
余計な勘繰りをされた上で、自分が彼女に抱いている思いを探り当てられたら、と考えると、言いようの無い不安が胸を支配する。

「弟?あ!」
今まで響也に向けていた視線を、声の方へ向け、茜は何事かに気がついて、そう声を上げた。
「刑事くん。帰ろう。というか。お願いだから。病院へ行こうよ」
思考が止ってしまったので、響也の言葉は細切れで、どこかぎこちなかった。
「牙琉弁護士だ。
 もしかしてこの事件を担当されてるんですか?」
茜は響也の言葉などまったく無視して、彼を押しのけ、霧人の前に姿を見せると、霧人に話しかけた。

「それで一体どうしたんです?響也」
声をかけられた霧人は、と言えば、茜はとりあえず無視し、冷たい声で問いかけきたその口調は
─女性をいじめて楽しむなどとは、見下げましたよ。
とでも思っていそうな物だった。

いや実際は、労わってるんだけど、彼女が人の好意を無碍にするんだよ。
等と弁明したい気持ちもあったが、言い訳と取られるのは分かっていたし、もう既に、彼女が自分の説得に耳を傾けないと分かった以上、ここは兄に縋る事にした。
それに、彼女との不毛な言い争いで疲れて果てていた事もあり、法廷外で兄と議論する気力すら、今の彼は持ち合わせていなかった。
誰でも良いから彼女に自分が病人なのだという、自覚を持たせてくれ。
と心底願う。

「仕事の邪魔をされました」
「してません」
まだ言うか!と胸中で毒づきながら、響也は即刻ツッコミを入れる。
今の彼女は、自身が熱に浮かされている事と、兄の不意な出現で、響也が弱っている事もあり、最強になりつつあった。

そして霧人も、彼女の様子がおかしい事に気がついて、「失礼」と言葉短く詫びを口にしてから、茜の額にそっと手を当てた。
その手は、茜が想像していたよりもはるかに冷たく、彼女は小さく「ひゃっ」という声を上げたが、霧人はそれを無視して、彼女へ告げる。
「風邪でもひきましたか?
 だいぶ熱があるようですが」

優しく、柔らかい口調と、表情で訊ねられた茜は、「はい。まあ」と答えると、それに霧人が、表情を崩さずに返す。
「今時期の風邪は、ひき始めにちゃんと手当てをしておかないと、長引きますから、今日は他の人に捜査を任せて、病院にいかれてはどうです?
 それに、無理をして倒れでもしたら、それこそ後で大変ですよ」
「そうですよね。分かりました。今日は他の人に任せて、私はお休みさせてもらいます」

早。というか、酷い。
ぼくがそう言ったところで、君は全然耳を貸さなかったじゃないか。
何その態度の違いは。
アニキとぼくの違いは、生きてる長さと職業だろ?
と、内心で猛抗議しつつ、"生きてる長さ"という言葉に、
─…年下の検事に偉そうな事を言われたくないわ!
先ほど、茜に言われたその言葉が脳裏に蘇ってきた。
つまり、自分は彼女よりも年下だから、その言葉を聞いてもらえなかったということだろうか?
理不尽さと共に、言いようの無い怒りを覚えたが、「じゃあ!」と、踵を返した瞬間、ぐらりと、大きく体を揺らし、足を踏み外し倒れそうになった彼女を、響也はすかさず抱き抑えた。

「……危ないな…」
と、呟いた声は掠れ、抱いた手からは彼女の異常に高い体温が伝わってくる。
そして、彼女の反応がまるきり無い事を訝しく思った響也は、「お〜い。刑事くん」と耳元で呼びかけてみた。 しかしそれでも、彼女からの返答は無く、不安を抱いた響也は、急いで彼女の顔を確かめ、そこで彼女が白目を剥いて気絶しているのに気がつき、それを見た瞬間、響也の中で何かが弾け飛んだ。

「気絶するほど具合が悪い人間を、現場によこすな!!」
堪忍袋の尾が切れた彼は、兄がその場にいる事も忘れ、声を荒げて叫んでいた。
そうだ。
最初から、他の人間をよこせば何の問題もなかったのだ。
一度しか組んだ事はないが、あの変な名前の、イトノコギリとかいうのだって、良かったじゃないか! そんな事を、胸中で毒づいてみる。
「救急車を呼びましょうか?」

一人の刑事が寄ってくると、彼は響也の剣幕に怯えつつもそう尋ね、聞かれた響也は「いいよ」と不機嫌に返し、「ぼくが車で近所の病院まで連れて行く!」と、まず彼女を床に寝かせ、そうしてから自分の上着を脱いでかけてやり、仰向けの彼女をそのまま抱えた。
つまり、お姫様抱っこをしている状態だ。

もうこうなっては、兄の目や、彼に余計な詮索されるという事は二の次で、彼女が無事ならそれで良い。
後で兄に、彼女について根掘り葉掘り、詮索されるかもしれないが、それは自分一人の問題だ。

「響也」
「…………」
優しい声で背後から呼び止められる。
何を言われるのだろうと、思考を巡らせるが、まったく想像もつかなかった。
「女性に対して優しく接しないから、反抗されるんですよ」
「……………。
肝に銘じとくよ。アニキ」
ガリューウェーブのガリューと言えば、フェミニストとして有名なのだが、今更それについて、反論する気もなかった。
一刻も早くこの場を立ち去り、彼女を病院へ連れて行くために、歩き出した響也の耳に、「まあ、頑張ってみる事ですね」という、兄のどう捉えるべきか、曖昧な言葉が届いたが、響也は聞こえぬフリで、自分の車へと向かって歩いた。




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