突然の豪雨に、雨宿りをするために入った軒先で、その人に会ったのは偶然だ。
 彼も自分の存在を認めると、眼鏡の下の目を細め、優しい笑みを浮かべると、『こんにちは』と、二人同時に挨拶の言葉を述べた。



■ 霹靂の恋 ■



「…覚えていてくださったんですか?」
 茜は思わず、目の前の霧人にそう訊ねていた。
「勿論ですよ。
 あのワガママな弟に付き合っていただいているのですから、忘れるわけはありません。
 もしも、あの子が何かごねるような事があれば、私に遠慮なく言ってくださいね」
「は…はい。ありがとうございます」


 本当は今すぐにでも、「あなたの弟さんが!」と、口にしてしまいたかったが、茜はあえて口をつぐんだ。
 そう、今現在。この場所で雨宿りをしなければいけなくなったのは、何を隠そう、彼の弟のワガママが原因だったから。


『こんな証拠じゃ。明日の公判を乗り切れないよ。
 もっと決定的な証拠を見つけられるはずだから、引き続き頑張ってね。刑事クン』


 人を小バカにしたように、腰に手を当てつつ、こっちをかがんで見下ろして、嫌味なほどの爽やかな笑顔を浮かべて彼は、そう要求したのだ。


 確かに、容疑者の指紋がついている包丁は、普段の生活で使う必需品の一つだし、それに血痕がついていたからとは言え、凶器と言えるかどうか微妙である。

 ───… 殺傷痕の深さは、28.9cm、幅は16cm。

 そして、凶器とされる包丁の全長は28.9cm、刃渡り16cm。

 刃渡り16cmは良い。
 傷口と符合する。
 しかし、深さが符合しないのだ。
 全長28.9cmの包丁で相手を刺したというのなら、柄の先まで犯人は相手に差し込んだという事になる。

 凶器とされる包丁の、実質的な金属質の部分は、16.5cmである。
 血痕は勿論、刃と柄の付け根までしか残されていなかった。
 そうなれば、凶器は別にある。という結論が導き出される。


 茜も、他の同僚達も。
 それは充分承知していたが、今にも降り出しそうな空模様の中では、誰もが不満を抱いた。

 冬から春へと切り替わる、この季節の雨はとても冷たいからだ。
 そして不幸にも、殺害現場とされているのは、この場所から100メートルほど先の河川敷だった。


『雨が降りそうだけど、水は全ての証拠を流してしまうからね。
 降り出す前に是非とも、これ以上の証拠品を見つけておくれよ』


 重ねて発せられた言葉は、相変らずこちらを見下した、まるで子供にでも言い聞かせるような、そんな口調と態度で────…。



 ガヅン!



 気がつけば、背後の壁を思い切り殴りつけていた。
 その彼女の急な様子に、さすがの霧人も驚いたのか、目を白黒させている。
 そして一呼吸置いてから、霧人は彼女へ声をかける。


「あの…どうされました?」


 優しい声で訊ねられ、茜の思考が現実へと呼び戻される。
 今、思い出しても腹が立つ。
 あの男のキザったらしい顔に、一発お見舞いしておくんだった。と、今更思って、変わりに壁を殴りつけていたなどとは、やはり口が裂けても言えるわけが無い。


「…すみません。ちょっと、決定的な証拠品が見つけられずに、イライラしていたものですから…」
「…決定的な証拠品?」
「ええ。
 今回のガリュウ検事は、いつにも増して慎重で。
 証拠品一つにしても決して妥協を許さないんです。
 どうしても、起訴する相手の『コレ』と、決定付けられる証拠品をあげろ。
 と、そう言われたので…」
「ああ。そう言えば、この事件を担当するような話をしていましたね」


 静かに告げた霧人の言葉が合図となったのか、『ザーッ』っと、更に雨脚が強くなる。


「多分、あの子が慎重になっているのは、今回起訴された相手の弁護を、私がするからでしょう」


 耳障りに思えるほど激しい雨音とは異なり、冷たく静かに霧人が告げる。
 それに茜の視線が彼へと向いた。


「不思議ですか?」


 茜の視線を感じた霧人が、彼女の瞳を見つめながら問いかけてきたので、彼女は何も返せずに、息を飲み込むしか出来なかった。
 そして、何の感情も窺えない、眼鏡の奥に密やかに佇む、蒼く美しい瞳に見惚れてしまう。


「私とあの子は、『弁護士』と『検事』です。
 仕事とは言え、弟と対立しなければいけないのは心苦しいですが、致し方のない事ですよ。
 何せ私のクライアントは、不当な言いがかりをつけられた上で、殺人者の烙印を押されようとしているのですから…」


『対立』、『不当な言いがかり』、『殺人者の烙印』。


 それらの単語が茜の頭の中で、ぐるぐると回り出す。
 何かが違う。
 彼は何かを勘違いしている。
 彼が分からずに、自分が分かる事は───…。


「…対立なんて…する気…無いと思うんですけど…。検事は…」
「?」
「あの。検事と牙琉弁護士さんの育った環境は分かりません。
 でも、私にも一回り上の姉がいるので、よく分かります。
 多分、検事は…お兄さんに認められたいんじゃないかなって…」
「認める?」
「そうです。なんと言えばいいのか、上手くは表現できませんけど。
 今まで支えてもらっていた分、それをもう返せるほどに大人になったという事を、認めてもらいたいんだと思うんです。
 肩を並べて歩いても、もう平気なくらい。
 手を繋ぐんじゃなくて、一緒に隣り合わせで笑いあいながら、これからの事を話し合えるくらい大人になったという事を、お兄さんに認めてもらいたいんじゃないかと…」


 必死で響也を語る彼女を見つめながら、霧人は心が冷え冷えとしてくるのを感じ取る。


 ──… 彼女は何を語っている?
 ────… 彼女は響也を語れるほど、仲が良いという事だろうか?



「随分と弟と仲がよろしいようですね。
 以前、お見受けした時は、毛嫌いしていたようにも見えましたが」


 ストレートに鎌をかければ、茜は自分が、響也に肩入れしていると改めて気がつき、ハッとしてから言葉を続ける。


「いえ。決して、お兄さんである、牙琉弁護士さんほど、弟さんの事を知っているなんて事はありません。
 ただお兄さんに対して、敵愾心を抱いて対立しようとか、そんな大層な事は思っていないんじゃないか、と勝手に想像したまでの話です。
 少なくとも私は、姉と対立しようと思った事もなければ、喧嘩をしたとしても勝てない事は分かっていますから…」


 ただ一度だけ。
 巴がどうしても許せない嘘をついたから、それに対して反旗を翻した事はあるけれど…。


「だからガリュウ検事も、そうなんじゃないかって。
 大切なお兄さんとの対立なんて考えてないと思うんです」
「大切…ね。
 私はあの子に大切に想われているのか、甚だ疑問を抱く事もありますが…」
「仲が悪いんですか?」


 茜からのその質問に対する霧人の返答には、一瞬だけ間があった。


「…子供の頃は、それなりに仲が良かったですよ。
 それこそあの子が中学に上がるくらいまでは、八つも年下の子供と真剣に言い争いや喧嘩をするのもバカバカしかったですし、何より両親共稼ぎで、家にはほとんどいませんでしたから、あの子が甘えられる相手は、私くらいしか居ませんでしたからね…。
 今は、普通だと思いますが」
「…じゃあ、牙琉弁護士さんは検事にとって、お兄さんであり、お父さん的な存在なんですね」
「……改めて確かめた事はありませんが、そう思われているかもしれませんね」


 霧人のその返答に茜が、ふっと、笑みを溢す。
 その理由が霧人には分からなくて内心当惑したが、それを気付かれぬように無表情を決め込んだ。


「じゃあ尚の事、お兄さんに対して感謝こそすれ、悪意なんて抱いてないですよ。
 私は両親を幼い頃に亡くして、姉に育てられたので、そういう検事の気持ち、分からなくもないです。
 うん。きっとそう。
 多分、牙琉弁護士さんは、全部自分で仕舞いこんで背負い込んでしまう、真面目な方なんだと思います。
 だから無理をせずに、一人で抱え込まずに、自分を頼って欲しい、って。
 牙琉弁護士さんが辛い思いをしていたら、その半分でも、三分の一でも、とにかく、ほんの僅かでも、自分も一緒に背負いたいと、そう思っていると思います。
 私も昔。
 16歳の頃に、姉に対してそう思った事がありますから。
 でも、まだその頃は子供で、結局は他人の力を頼るしかなかったんですけどね」


 そう茜が無邪気に語るので、霧人の顔が自然と綻んだ。
 そして茜は、『刑事ク〜ン』と、自分を呼ぶ、噂の主の声を耳にして、一瞬顔を引き攣らせると、ヤバイとばかりに、「すみません。私、そろそろお暇します」と言って、その場を後にしようとする。


「まあ、少し落ち着いて…」


 慌ててのその場を立ち去ろうとした彼女に霧人は、「まだ雨脚も強いし」と、そう呼び止めようとしたが、慌てた彼女は、雨に濡れて滑りやすくなったタイルに足を取られ、「キャッ」と、小さい悲鳴を上げて、転びそうになる。


 その時────…。


 力強く誰かに不意に抱き止められて、暫く放心した後、頭上から声を掛けられて我に返る。


「大丈夫ですか?
 そう慌てると、不用意な事故を招く事になりますよ。
 こんな風に…ね」


 自分を抱き止めてくれたのが、霧人だとその声から察すると、茜はこれからどうしようかと頭をフル回転させる。
 慌てて飛びのき、「すみません」では、いくらなんでも失礼なように思うし、だからと言って、このまま抱いてもらっているわけにもいかないし、「すみません。もう大丈夫ですから」と、声を掛けて、解放してもらおうと考え至った矢先、『刑事…クン?』と、自分を探していた声の主が、ほんの数メートル先で、足を止めた事に気が付いた。


「……アニキと一緒だったのか」


 『刑事…クン?』と呼んだ時は、一瞬、当惑したような声音だったのに、今先ほどの言葉には、何の感情も表れてはいなかった。
 あえて、何を感じているのかを、悟られぬように、そう振舞っている声色…。


「この雨でしょ。
 ぼくが無理を言って君達に雨の中、捜査をさせてるわけだから、風邪をひいたと恨まれても何だしと、安物のビニール傘で申し訳ないけど、差し入れにと…探してたんだ…。
 君を。
 付け加えるなら刑事クンが最後の一人だよ」


 場つなぎのつもりだろうか。
 響也がそう、説明的な台詞を口にする。
 それを聞きつつ、響也がどんな顔をしているだろう。と、想像し、彼が何か誤解をしているのではないかとそこを気に掛け、茜はその矛盾した感情に戸惑う。



 そして───。



 茜をその腕の中から、霧人は解放すると、最初の時と同じ、優しい笑みを彼女へ向ける。
 その彼に、茜は気恥ずかしさもあり、顔を赤く染めた。


「今日はとても楽しかったですよ。刑事さん」


 その言葉で、茜は「はい。こちらこそ、ありがとうございました」と、頭を下げ、彼に背を向け、響也の方へと歩き出そうとした。


「できればまた、あなたのその素敵なお話を、私に聞かせてくださいね」


 振り返った瞬間に、風で踊った髪を一房、霧人に優しく掴まれてそう告げられた。
 その彼の行為は、まさに別れを名残惜しむ物で、茜は再度彼へと視線を向けると、「私の方こそ、是非」と返す。


 そして彼女は、響也の元へ来ると、彼の様子がおかしい事に気が付き、「どうなさったんですか?検事」と、問いかけた。


「…あ…いや。ほら、傘を差さずにここまで来たから、びしょ濡れじゃないか…。
 はい…これ」


 そう言って響也は、傘を差していない方の手で、閉じたままの傘を広げると、茜にそれを差し出し、そして、彼女が傘をさした瞬間、羽織っていたジャケットを彼女の肩へとかけた。

 それを拒絶しようかと思ったが、この場に霧人が居る事を思い出し、彼女は必死にそれを耐え、「後で洗って返します」とだけ言うと、同僚達の元へと歩き出した。


 そして響也は、先ほど彼女の髪に口付けをし、まるで宣戦布告でもするような兄を一瞥してから、茜の背中を追った。


 そして、茜の背に向い。



泥棒猫



 と誰かが囁いた。



'08.02.24.UP

あとがき


牙琉兄弟の家族設定は、真野氏より受け売り状態で書いています。
否定する要素もないし、自分で想像する牙琉家像もないので、その分の時間で話一本を考えられると思えば、無駄を省けるしいいのかな?と。


本当は、茜と霧人がキスしていると勘違いして、響也が狂ったように嫉妬して。という展開だったのですが、それだとアニキのお仕置きというか、響也に対する報復があるので却下されてしまいました。


『泥棒猫になんてお前を渡すわけはないでしょう?』
がテーマなんです。


タイトルが誰の事を指しているのか気になる方は、「0.5」をお読みください。
(微妙に「意地っ張り」→「この話」→「0.5」という感じで、お話がリンクしています)

悠梛 翼



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