格別、裕福だったわけではなく、ゴクゴク普通の家庭だった。
 ただちょっと、他の人と違うのは、一回り年上の姉が居た事と、両親が早くに亡くなってしまった事だけだ。
 だからだろうか?
 幼い頃、両親と共に過ごした数少ない想い出は、茜にとって何物にも変えがたい宝物だ。
 姉に教えられ思い出したり、思い出さなかったりする記憶もあるが、『カフスボタン』の想い出は、茜が最も色濃く思い出せる、父との大切な物だった。

 父の洋服ダンスにしまわれた、色とりどりのカフスボタンを父が出かけた後、コッソリ覗くのが茜は好きだったが、父がカフスボタンを止めて出かけるのは大嫌いだった。
 なぜならそういう日は大抵、家に帰ってくるのが遅くて一緒に遊んではもらえないし、お風呂にも入れなかったからだ。

『茜ちゃん』
 お父さんが優しい声で、そう声を掛けてきたが、茜は背中を向けたまま、何も答えず、逆さまの絵本を読んでいるフリをした。
『茜ちゃん』
 今度は茜の前に回りこみ、父がそう呼ぶと、頬っぺたを膨らませて、プイッ。とそっぽを向いた。
 ちなみに唇を尖らせているのは言うまでも無い。

『ねえ。茜ちゃん。
 テーブルに置いてあった、お父さんのカフスボタン知らないかな?』
 優しい声で父が尋ねてきたが、『知らない』と、本当は自分のポケットにしまってあるのに嘘を言い、『私、絵本を読むのに忙しいの』と、さらに嘘を重ねた。

 窓から見える空は、とても青く澄んでいて、今日は一日、快晴だと告げている。
 そして、その事が茜をより一層、惨めな気持ちにさせ、同時に苛立たせ、意固地にもさせた。





『お休みだから』。
 と父は、珍しく平日が休みになった事を告げ、姉の開校記念日とも重なっていたので、家族全員で郊外の有名な遊園地─茜はそこのマスコットのあひるがお気に入りで、そのお尻が大好きだった─に、連れて行ってくれると約束をしていたのに、『ごめんね』と今日になっていきなり、『急な会議が入ったから』。そう、約束をキャンセルさせて欲しい。と手を擦り合わせるようにお願いされた。
 昨日の夜からあまり眠れず、ソワソワしていて、いつもより一時間も早く起き、お母さんやお姉ちゃんと一緒に不恰好だけど、おにぎりも握ったのに…。
 つい、三十分ほど前にかかってきた電話が、全てを台無しにてしまった。
 久し振りの…。
 三ヶ月振りの家族全員でも外出だったのに…。
 とても楽しみにしていたからこそ、それと同じくらい、仕事を理由に約束を破った父も、約束を破らせた仕事や会社にも、腹が立った。

『人との約束は守らなければいけない』

 そう、お父さんは教えてくれていたから、本当は自分との約束も破りたくは無かっただろう、と子供ながらに理解していたからこそ、お父さんに嘘をつかせた仕事と会社を憎らしいと思い、お父さんが大好きだったからこそ、全てを父親の仕事と会社の所為にし、怒りで顔を真っ赤にして、無言で机の上に置いてあった絵本を手に取り、そのまま、どっか、と、テレビの前に座り込んだ。

そして、明らかに不機嫌な茜の態度に、悪い事をしてしまった自覚のある父親は、何とか彼女の機嫌を取り直そうと必死である。
『あ…茜ちゃん!?
 こ…この埋め合わせは…茜ちゃんの大好きな藤屋のイチゴのショートケーキを買ってきてあげるから!なんなら15号のワンホール!』
 その言葉はちょっと魅力的だったが、茜は尚も無視をした。
 テーブルの上にカフスボタンが置いてあるのを、茜は見てしまったから。
 多分、帰ってくるのは茜が寝てしまった夜中の話─ただし、子供の夜中なので、せいぜい21時頃の話なのだが─だ。
 それでは、茜の大好きな藤屋は閉まっているし、そうなればこの約束も守ってもらえない事になる。
 だから、茜はツーンとそっぽを向いて、『パパなんて嫌い』と一言呟くと、父に背中を向けて、絵本を見続けた。
 まだ字の読めない茜には、文章は分からなかったが、そこに描かれた二匹のねずみの絵を見て、不快な気持ちになり、どうしてこれを取ってしまったのか。と顔をしかめた。

 この本は、本物のねずみとぜんまい仕掛けのねずみの友情を描いた物語で、絵もかわいいし、感動する作品なので茜は大好きで、毎晩のように母か姉に読んで聞かせてもらっているが、今日から嫌いになってしまうかもしれない。
 そして、姉と母がとりあえず、『お父さん抜きで、お弁当を持ってどこかへ行こう』。と、お弁当を詰めながら話し出した時、再び父の携帯が鳴り、彼は寝室へ姿を消した。

 そうして父が居間へ戻ってくると、テーブルの上に置いてあった、カフスボタンが消えていた。

 無くなっている事に気付いた父は、台所と茜を交互に見比べた。
 妻と巴は台所で、お弁当を詰めていて居間の些細な変化には気がついていないらしい。
 一方の茜は、ワタワタしつつも、さも、先程と変わらない、『動いていないよ』。というフリをして、絵本を逆さに持っていた。
 その茜の姿に、父は溜息をついてから、『ねえ、茜ちゃん』と、カフスボタンの所在を尋ねたが、茜は頑として『知らない』の一点張りだった。


 しかし。結局その日は、母と姉に連れられて、近所の動物園へ遊びに行った。
 そして、その日一日。何をしていても面白くなかった事を覚えている。





 何故、自分が今、この場でそんな事を思い出したのか、茜は自分の目がおかしな事になってやしないかと、もう一度、この部屋の主の名前を確認した。
 『牙琉』
 間違いなく、ネームプレートには、そう記されている。

「もしもし。刑事クン。その反応は、ぼくに対して失礼じゃないかな?」

 茜が何を思って、そんな行動に出たのかを理解した響也が、身支度を整えながら、そう告げる。
「検事も持ってたんですね。背広…」
「まあね。ぼくもコレで一応、成人男性の社会人だし、何より、国家公務員だしね。
 チャラチャラしてない、公的な場に相応しい服も結構、持ってるんだよ…これで…」
 貴方のは、『チャラチャラ』じゃなく、『ジャラジャラ』なのよ。
 と、心の中でツッコミを入れる。
「じゃあ、いつも真面目な服装で出廷すれば良いじゃないですか」
「ヤダよ。暗いもん」
 そう即答した彼に、『どんな格好をしても牙琉響也は牙琉響也以外の何者でもない』。という事実を確認する。

「でも。一体どうしたんですか?
 急に背広なんて着て…」
「ああ。なんか急に、『見合いをしろ』。と検事局長のご命令がくだってね、行かなくちゃいけないらしいんだ。お見合いに…」
 理由を尋ねたとたん、響也は不機嫌になり、怒った様な表情で、そう告げた。
 そして、一方の茜は、「そうですか。大変ですね」とだけ返す。
 その茜に、響也は半眼を向けて告げる。

「なに、その反応!?
 『えぇ〜ヤダァ〜!検事、そんなの無視して私と一緒にお茶でもしましょうよ!』とか『そんな、個人の予定も無視した見合い、ドタキャンして私とデートしましょうよ!』とか何とか、引き止めてくれないの?」
 響也はここぞとばかりに、そんな妄想を口にし、それに対して茜は呆れた表情をした。
「それは検事の願望であって、私はそんな事、口にしません。
 そもそも私には検事の人生に、口出しする義務も義理も無いので…」
「連れないなぁ〜。ぼくと刑事クンの仲じゃないか」
「単なる仕事上でのお付き合いだけですが」
「…冷たいな…刑事クン」
「ええ。
 検事が結婚しようが私には、本当にどうでも良い話なので」

 ざっくり斬り捨てた茜に、響也は心底ショックを受けたのか、しおしおとマッサージチェアにうな垂れた。

「じゃあ。昨日お預かりした案件の書類、こちらに置いて行きますね」
 茜はそう言うと、相変らず乱雑に書類の詰まれたスピーカー─しかし響也は、断固として机と言い張っている─に、書類を置こうとして、手を止めた。

 その茜の様子に、すぐに気付いた響也は顔を上げると、「どうかしたのかい?」と訊ねた。
「あ。このカフスボタン、綺麗ですね」
 トルコ石だろうか?深い緑色の宝石で作られたカフスボタンに目を止めた茜が言うと、「ああ」と頷いて響也が説明をする。
「それは、父方の祖父の形見なんだ。
 祖父が亡くなる前から、ぼくはそのカフリンクスが気に入っていたのを知っていたから、父が「まだ早いけど」って、幼いぼくに形見分けの際にくれた物なんだ」
「カフリンクス?」
「ああ。カフスボタンは和製英語で、欧米ではcuff links.って呼ばれてるんだよ…。
 アレ?刑事クンもアメリカに居たのに、知らなかったのかい?」
「…すみませんね!
 そんなにカフスボタンと接点が無いから、和製英語だなんて気がつかなかったんです!」
「まあ、そうだよね。今はほとんどのシャツに、ボタンがついてるし…。
 刑事クンは女性だから、使う機会もまず無いだろうし…」
「…使う機会はまずありませんでしたが、私の父が好きで、集めてましたね。
 だから我が家には、たくさんカフスボタンがあって…、お父さんの唯一の贅沢品であるそのコレクションを、コッソリ覗くのが私は好きでした…」
「へぇ〜。刑事クンのお父さんは、カフリンクスをよく利用する人だったんだね」
 その響也の言葉に対する茜の返答は少し遅れた。

「…カフスボタンを着ける時は、大抵、重役が出席するような、大きな会議の席ばかりで、そんなによく、というほど着けては居なかったんですけど…」
「ふ〜ん。じゃあ、カフスボタンをつけてお父さんが家を出ると、大抵夜が遅かったりして、寂しい思いをしてたんだ…」
 響也は自分が失言した事を、改めて理解したのか、心苦しそうに、そう告げた。
「だから私。
 一度だけ、父のカフスボタンを隠した事があるんですよ。
 遊園地に連れて行ってくれる、って約束してたのに、急な会議が入ってしまって、お父さんに嘘をつかせた会社と仕事に腹が立って…」
 何故だろう、自然とそう口にしていた。
 別に響也にそんな話をしてやる義理はないし、するつもりも無かったのに…。
 本当に、「つい」という言葉が相応しいほど、自然な流れでそこまで話、その続きまで口にした。

「子供だったんですよね。
 そのカフスボタンさえ隠しちゃえば、お父さんは会社にいけずに、会議にも参加できないだろう。って。
 その浅はかな考えだけで、自分のポケットに入れちゃったんですよ。
 他にもたくさん、カフスボタンがあるのは知っていたはずなのに…。
 だから、ちょっと考えれば、他のを着けて会社に行けるのは分かったはずだし、カフスボタンを全部、隠した所でシャツを着替えれば、いくらでも会社に行けちゃうのに…」
「でも。幼い刑事クンは、思ったわけだ。
 『お仕事と私、お父さんにとってどっちが大事なの!?』って」
 まるで響也は実体験のように、そう苦笑を溢して返した。
 そして茜は、「そうですね」と、同じように苦笑して、同意する。
「困らせたかったわけじゃなかったんですよね。
 ただ、自分を見て欲しい、一緒に居る時間を大切にしてもらいたい。
 でも、言葉で伝えても、『ごめんね』と言われてしまえば、それで我慢しなくちゃいけなくなるから、じゃあ、行動で。って、単純な考えで…。
 結局は、何の意味も無い、悪あがき…なんですけどね」
 それに仕事をする身になった茜には、『仕事』と『家族』、どちらが大切か。という事の答えなど、一生かけても出ないと既に理解しているし、子供の頃の茜だって、うっすらとは同じ次元で比べられる物ではない。と、そう理解していた。
 だからこそ、『どっちが大切なの!?』とは、口に出来なかったのだ。
「刑事クンは、当時から我慢のできる良い子だったんだね。
 ぼくなんて我慢ができずに、母親に、『ぼくとお仕事、どっちが大事なのぉ〜!?』って、大泣きして問い詰めて、アニキに大目玉を食らった事があったよ」
 茜はその響也の姿が手に取るように分かり、呆れたような視線を彼へ向け、響也は、苦笑しつつ、「昔の話だよぉ〜」と、冷や汗混じりに告げる。

「いや。でもさ…」
「はい?」
「ぼくのカフリンクスは、今ここにある、一組しかないじゃない?
 だからさ。刑事クン。隠していいよ。遠慮せずに…」

 その響也の申し出に、茜は尚も呆れた様子で、半拍の間を置いて返す。
「お見合いを断るのなら、ご自分の口でお伝え下さい。
 そして、あなたの人生の選択に、私を巻き込むのは止めてください」
 そう言うとニッコリ微笑んだ茜は、響也の言う所の『机』をチラリと見て、バン!と音がするほど乱暴に書類を置くと、「じゃあ」と、その言葉だけを残し、さっさと出て行ってしまった。
 その茜の冷たい態度に、「酷いじゃないか…刑事クン」と、しょんぼりした響也だが、ふと、机に目を止めた。

 なぜならそこにあったはずのカフスボタンが、先程、茜が乱暴に書類を置いた事により、机の上から落ちて、どこかへ行ってしまっていたからだ。

 響也は『素直じゃないなぁ〜』と内心で思いつつ、事務官を呼ぶと、仕事が忙しくなり、今日の見合いの席には出席できない。と、先方に連絡して欲しい。旨を伝え、とっとと背広を着替え出した。
 そうして響也は、見合いの危機を脱したのだが、その代償として、祖父のカフスリンクスの片方を無くしてしまい、その後、見つける事ができなかったと言う。


Cuff Links.

2008.10.19



あとがき

このお話では、
○何故かお見合い話を持ってこられて困っている響也。
○自覚なしに響也の見合いをぶち壊した茜。
をイメージし、その後に、両親が『結婚記念日だからミ○ニのフレンチを食べに行くんだ』とめかしこんで居る姿を見て、カフリンクス(カフスボタン)を思いつき
『キョウヤコワイ』に微妙にリンクさせてみたいな。と思いついて出来上がった物です。
しかし。子供を書くのは難しいですね。
ずっと。職場で接している子供を観察しながら、子供らしさを研究したのですが…あまり…その成果は現れていないですね…。
あと。
仔茜の読んでいる絵本ですが、自分の中の記憶でねずみが出ているお話、しかも、絵本になっている物がパッと思い浮かばなかったので、真野に尋ねたところ、某スイミーの作者さんのあの話を言われ、『ああ。あったね。そんな話』と、採用しました。 確か、小4の教科書にも載っている作品です。

悠梛 翼




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