────あの頃からか…。



言いようのない不安と、言いようのない劣等感を弟に抱くようになっていた。
そして、当時、微妙な関係だった自分の恋人と響也が抱き合ってい姿を目撃し、それを口実に当り散らした。
響也に対する劣等感を、不安と怒りと、そして、感情の全てを…。

当時の彼女と響也が抱き合っていたのは、別に彼に責任はなく、彼女の方に問題があり、 ──いや、正しくは、彼女とゆっくり話し合おうとしなかった、自分にこそ責任があったことなのだが──、 響也には何の責任も、自分達の関係を壊そうという他意も無かった事は、充分承知ていたが、説明も聞かずに、 殴りかからん勢いで彼に詰め寄り、罵詈雑言という表現が相応しいほどの言葉を浴びせたのだ。

しかし、響也は弁明もせず、ただ黙ってそれを聞き終えると、「ごめん」と謝ったのだ。
自分が悪いわけではもないのに…。
むしろ、彼は被害者だったというのに…。




────…いつの間にか離れてしまった手。




0.5o、ほんの少し、手を伸ばせば届くその距離が、とても遠くて、そして自分を焦らすのだ。

響也が17歳の頃。
「無事試験に合格したんだ。これで今日からぼくも、検事だよ!」
そう喜びのあまり、真っ先に自分へ連絡してきた彼に、「それは響也が努力した成果ですよ」という言葉を吐きながらも、 当て付けに『自慢しているのか』と、やっかんで、深い闇がまた一つ、心に染みのように広がり、 更に歪んだ感情が生まれた事を覚えている。
はしゃぐ声に、素直な惨事と喜びを分かつ事が出来ないのは、やはり自分がどこか、 取り返しのつかない部分で歪み、捩れてしまった証拠なのだろうと思いつつも、腹の底からわきあがる、 この感情について考えてみた。




────…馬鹿な子ほどかわいい。

────…かわいさ余って、憎さ百倍。



考えた結果、そんな言葉が脳裏を過ぎり、そして、その言葉を自分の身に置き換えて、イヤと言うほど理解した。

───…バカで、憎らしいとさえ思うこともあるけれど………………
それと同時に─────…。

「アニキ。どうしたの?」
一口、口をつけただけで、それ以上食べようとしない霧人を心配し、響也がきょとんとした表情で 尋ねてきたので、思考が現実へと呼び戻される。
「本当は、具合悪いんじゃないの?顔色が悪いけど」
問いかけてきた響也に、「ああ、こんな私でも、お前は心配してくれるのですね」と思いつつ、
「風邪でもひいた?辛いなら、ベッド使う?」
「響也……」




そんなに私の心配をするのなら、




私のために………




─────………その命を私にください。




思わずそう口にしそうになり、それを喉元で飲み込むと、彼は別な言葉を口にする。

「お前のテーブルマナーは相変らずですね。
私はどうやら、教育の仕方を間違えたようです」
テーブルの上には、ホットケーキの食べかすがぼろぼろと零れ、響也の口の端には、チョコレートソースがついていた。
指摘された事で響也も、自分のテーブルマナーの悪さに改めて気がつき、耳まで真っ赤にした上で言う。
「う。…どうもアニキの前だと、気を抜いちゃうんだよな。
普段はこんなんじゃ────!!!!!!?」

拗ねたように言う響也の頬に、激痛が走る。
一瞬、何が起きたのか理解できなかったが、 兄に噛まれたのだと気がついた瞬間、面妖な表情を浮かべてしまう。

「チョコレートがついていましたよ。響也」
「え?な…、それでどうして噛み付くの?」
その言葉に、霧人が満面の笑みで答える。
「行儀が悪い子へのお仕置きです」
きらびやかに満面の笑みを浮かべ、そうあっさりと返され、 何故男に、しかも弟に対するお仕置きが、頬に噛み付く事なのか。
しかもそれは、噛み付いた本人にとっても嫌な事じゃないのか?と、 問質したかったのだが、霧人がスーッと立ち上がり、帰る準備を始めた事で、問いかける事は叶わなかった。

「アレ?アニキ。まだ残ってるけど、帰るの?」
「ええ。行儀の悪い人間と食事をしていたら、食欲がなくなりました。
私はこれで帰ります」
そう言い残し霧人は、響也の静止も聞かずにそのまま部屋を出て行ってしまった。

響也は内心、半径15センチはあるホットケーキを、一人で七枚ちょっと平らげなければいけない方が、 噛みつかれた事よりも、本当のお仕置きのように思えてならなかった。
そして、ひりひりと痛む頬を確認しようと鏡を見れば、それはギリギリ右頬、あと0.5mm右にずれていれば、唇という際どい 位置に、噛まれた痕が残っており、兄の様子がおかしかった事よりも、この傷が数日間は消えないという事実に気がついて、 ホットケーキの問題と、この傷をどう隠すかについて、真剣に頭を捻り出した。

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